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富夲銭は「フホンセン」

 投稿者:葛の葉メール  投稿日:2011年 7月29日(金)23時30分59秒
  「本」と「夲」は本来別の文字、「夲」は「トウ」と読み云々は確かにその通りですが、7世紀8世紀の日本においては、「夲」と書いて、現在の「本」を表していました。

「現在の」と書きましたが、もちろん文字の起源から言っても「本」が正しいのです。しかし、中国では2世紀の八分で書かれた碑文にも、すでに「夲」と書く例が現れており、楷書の時代になってからは、ほとんど「夲」と書かれるようになりました。これはおそらく草書の字体からの影響なのでしょう。

日本に漢字使用が伝わったのは、中国ではすでに楷書が中心になっていた時代で、「夲」の字体だけが伝わったとしても不思議はありません。なお、漢字使用が韓半島から伝わったことを考えると、高句麗好太王碑においても「夲」の字体が使われている事実は参考になると思います。

奈良文化財研究所の松村恵司さんは、飛鳥池遺跡出土の8000点余りの木簡について、「法華経夲、山夲等、すべて夲が使用されている」と述べ、「後世の字典には俗字、偽字とするが、七世紀から奈良時代は夲とするのが一般的」とされています。(「文字と古代日本」4-3「古代銭貨の銭文」引用は要約)

中国では、唐の時代、特に科挙において使用すべき正しい字体の基準を定めるため、楷書の字体の「乱れ」を正す動きが起こりました。有名な顔元孫の「干禄字書」はその流れの代表的な著書ですが、そこにはまだ「本」と「夲」は取り上げられていません。甥の顔真卿がそれを碑文にし、干禄字書は世に広まりますが、その顔真卿も「本」の字体は一例しか残しておらず、通常は「夲」の字体を書いています。9世紀には「五経文字」が国家公認の形で正字の基準を示しますが、そこでもすべて「夲」の字体が用いられています。

結局、「本」の字体が正字として認識されたのは、宋代以降のこととなり、引用されている「広韻」のような記述が現れるわけです。これが宋版の普及と共に一般化し、やがて日本にも伝わります。(ただし、それ以後も「夲」の字体を書く例は多く見られます。)

日本で「本」の字体を書いた確かな例としては、栄西が最も早いようです。私自身、いろいろな文字資料に当たってみましたが、平安時代後期までのもので「本」という字体を書いたものは未だに一つも見たことがありません。

なお、それらが「夲=トウ」として書かれているのでないことは、ほとんどの文脈で明らかですが、典型的な例としては「日夲」と書かれているものが多数あることでも分かります。「日夲霊異記」「日夲書紀」「日夲国」等々。また、聖徳太子の(ものと伝えられる)「法華経義疏」の欄外に「非海彼夲」(かいひのほんにあらず)という書き込みがあり、やはり書物の意味の「本」を表しています。このような例をあげると切りがありませんので、ご自身で実際に資料に当たってみられることをお勧めします。

このように、少なくとも7世紀8世紀の日本では、「本」の意味で「夲」の字体を書いた例が多数見つかり、逆に「本」の字体そのものが全く見つからないことから考えて、「夲」を本来の字義に解して「トウ」と読むことには無理があると思います。

http://kuzunoha.kantate.info

 
 

ついに特選!

 投稿者:山の管理人  投稿日:2011年 4月15日(金)13時09分54秒
  電子機器の販売等を行なっているカナデンのフォトコンでとうとうただ一人の特選に輝きました。http://www.kanaden.co.jp/amusement/contest/47/index.html 数多くの山岳写真を抑えてのトップ当選、なんと今年は波乱に富んでいることでしょう。これであの地震が無かったら良かったのにと悔やまれます。  

写真展がケーブルテレビに

 投稿者:ホームページ管理人  投稿日:2011年 2月 9日(水)12時00分24秒
  2月10日午後6時以降、11時半までの「大田ケーブルテレビ」に写真展「知らない奈良 どうぞ展」が紹介されることになりました。ご覧になれない方もおられるかも知れませんが、一応報告致します。  

今年も信金で写真展開催

 投稿者:ホームページ管理人  投稿日:2011年 1月16日(日)14時37分29秒
  賀正ーん、おめでとうございます。今年も京急蒲田駅東口踏切そばの「芝信用金庫」で昇龍写真展・第5回「知らない奈良 どうぞ展」を2月一杯(2月1日から28日まで)開催します。午後3時までの営業時間だけですからお早めに。古いネガやポジをスキャンしてゴミ取りに励んでおります。今では絶対撮れない奈良の珍しい写真が続々登場!ついでに邪馬台国大和説も大批判、大和を邪馬台国に比定、いや否定します。お楽しみに。  

予定になかったから行かなかったのだー

 投稿者:ホームページ管理人より  投稿日:2010年12月19日(日)16時40分5秒
  『九州考古学散歩』という本をもとに福岡県に限ってと、久しぶりの関門海峡、長崎を予定していて今回は熊本は無視、じゃないパスしたのです。もちろん鞠智城は知っていましたが公園になっているみたいだし、雑木林の中に礎石があるような風景を見たかった。夏に行った「トンカラリン」へは入れなかったのでまた行きたいし、山鹿周辺の装飾古墳も見てみたい。また今度。筑後吉井の古墳は見ましたよ。「土城が出てきてこんにちは」ときちんと発掘されることを楽しみにしておりまする。  

帥升の土城跡を抜かしましたね。

 投稿者:伊作  投稿日:2010年12月16日(木)17時56分52秒
  せっかくだから、鞠智城跡もみられるとよかったですね。
7世紀に築かれたあの城の下には、倭国王帥升の土城が眠っているのです。あははー

地元では、もともとあそこには古い城があったという伝承が残っています。
人工の貯水池から、大型の木製スコップが2本でていますが、
鉄の農耕具盛りの7世紀に木製のスコップはないでしょうし。

考古学はおかしい。
王城の門にこそふさわしい3重の楼閣が、
軍事山城に、50メートル間隔で立っていますが、
太鼓を叩いて時を知らせる鼓楼だというんですからね。

鼓楼ならば無粋な櫓がふさわしいし、
広大な敷地の中での伝達効率を考えてしかるべく配置して建てるでしょうに。
 

古代九州へ行きました

 投稿者:ホームページ管理人より  投稿日:2010年12月 7日(火)00時09分40秒
  15,6回目の九州の旅。私にとっては4番目の古代山城である初めての大野城へ行き、途中の岩屋城から大パノラマを楽しみ、長大な土塁に驚き、百間石垣の雄大さにうたれました。奴国の丘のガラスの出土品を見たり、折りたたみ自転車で全く人のいない怡土(いと)城へ行き、礎石や磐倉のような巨石群を見、雨の中を走りました。墳丘が復元された平原(ひらばる)遺跡に久しぶりに再会しました。またブログに書きますのでよろしく。古墳時代の遺跡を無理に邪馬台国にしようとする畿内の遺跡と違い、純粋さが感じられました。車窓より懐しい吉野ヶ里を眺め、亀山社中へ。巌流島へ。帯方郡ならぬ関門海峡の大砲群へ。時代は下って雨と風の唐津城へ自転車でGOしたのも今は楽しい思い出です。  

ご無沙汰しております。

 投稿者:伊作  投稿日:2010年11月14日(日)09時16分36秒
  私のほうから質問して、そのままにしていて・すみません。
ここのところ、電子書籍にする準備に追われていまして、
ついつい、そっちに集中しておりました。
引き続き、私のサイトを電子書籍する予定で、現在進行しております。

姉妹編の第一弾として、『民族の指紋』というタイトルで公開しました。

http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/13115

なお私の質問の件ですが、どこかの学者か素人が、「画文帯神獣鏡は公孫氏から頂戴したものではないか」などというバカげたことをいってるらしいので、それを潰してやろうと思って質問したものです。(呉からきた鏡職人に呉式鏡をつくらせたというわけでしょうか)。
いずれ私の批判文に書きますが、倭国の朝貢外交の相手は一貫して中原の覇者たる王朝であって、太守あがりの火事場泥棒みたいな公孫氏に朝貢外交よろしく付き合いしてたなどとは笑止千万、倭人の誇りを分かっていないし、歴史を知らない奴の意見でしょう。

ご教示ありがとうございました。
これはコピーして引用させていただきます。
 

にわか仕立ての小説?

 投稿者:ホームページ管理人より  投稿日:2010年 9月 6日(月)12時57分22秒
  画文帯神獣鏡といえばかつて読売新聞に連載されていた「箸墓幻想」という浅見光彦シリーズの小説があった。原作は読まずテレビ化したのを見たけれど内容は「画文帯神獣鏡が出土した所が邪馬台国」というものだったと記憶している。そうなら作家の内田康夫氏は中国の銅鏡の出土状況を知らずに書いたとしか思えない。やはり「にわか勉強のヘボ探偵小説」という非難は免れないことになろう。神獣鏡の類(たぐい)は魏ではなく、呉の文化ということになるからだ。本物の小説というものはなかなか無いものなのだなあ。ざんねーん!  

お答えします

 投稿者:ホームページ管理人より  投稿日:2010年 9月 5日(日)09時35分17秒
編集済
   画文帯神獣鏡には環状乳神獣鏡とか半円方枚(中国式、日本では半円方格)神獣鏡とか厳密に分けると大変ですが、私の持っている2冊の『洛陽出土銅鏡』には(『倭人伝』の「銅鏡百枚」式に私は「枚」と書きます)1枚も載っていません。王仲殊氏のいうように神獣鏡は呉鏡であることは明らかです。
 「魏の年号である黄初年号の神獣鏡が出ているが、呉が魏と同盟を結ぶことを考えて呉も魏の年号を使う時期があり、製作地は呉である」と王氏も『三角縁神獣鏡』の中で断言し、五島美術館の『前漢から元時代の紀年鏡』という図録にもそう書かれています。
 愚かな大和説の学者はこれこそ魏は神獣鏡を用いている証拠とみなしているようですが、王氏はそれをも批判し、呉が魏の年号を使ったことを知らないのだと簡単に見破っています。神獣鏡は呉の地域から圧倒的に出土する「呉の鏡」なのです。
 さて『鄂城漢三国六朝銅鏡』には画文帯神獣鏡6枚、半円方枚神獣鏡11枚、メッキされて黄金に輝く、上に「流」を書いて下に「金」を書く「リュウ金画文帯神獣鏡」が3枚紹介されています。
 去年訪れた熊本市立博物館の鏡1枚(ブログ「写真狂人のひとりごと4」秋の九州古代文化の旅で見たこと 第8日参照)は展示に「リュウ金獣帯鏡」とありましたが、本当は「リュウ金画文帯神獣鏡」です。博物館の学芸員もその程度なのです。あれは熊本の豪族(クマソ?)が独自に入手した鏡であって、大和の古墳より上等品を大和が贈る(下賜したなんてとんでもない!)訳がありません。同郷者なのに自虐歴史観もほどほどにせい、と言いたいものですよね。あなたとはエライ違いですばってん。ハッハッハ。
 おまけにもう1冊、同じ呉の地域『浙江出土銅鏡』には半円方枚神獣鏡が何と30枚近く紹介されています。いわゆる画文帯と銘帯に分けるのは勘弁してください。同様な鏡は圧倒的に呉の地域から出ているということです。
 季刊『邪馬台国』最新105号では95ページに、中国では盛行の時期は後漢(西暦200年)以前だが日本では4、5世紀と書かれています。日本では古墳時代を通じて大人気の鏡です。いわゆる大和政権は呉と親しくした勢力であり、魏と親しくした邪馬台国とは違っていたようです。あなたとお会いした時、2番目に見せた鏡が画文帯神獣鏡でしたよ。あえて本物とは言いませんが(私は信じています)、あれだけの精密な文様はスキャナーで拡大しても十分鑑賞に堪えられる代物です。残念ながら銘文は磨耗して読めませんが。あ、そうそう中国では青龍、正始、景初年号の鏡は出ていません。ほなまた。
 

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