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「本」と「夲」は本来別の文字、「夲」は「トウ」と読み云々は確かにその通りですが、7世紀8世紀の日本においては、「夲」と書いて、現在の「本」を表していました。
「現在の」と書きましたが、もちろん文字の起源から言っても「本」が正しいのです。しかし、中国では2世紀の八分で書かれた碑文にも、すでに「夲」と書く例が現れており、楷書の時代になってからは、ほとんど「夲」と書かれるようになりました。これはおそらく草書の字体からの影響なのでしょう。
日本に漢字使用が伝わったのは、中国ではすでに楷書が中心になっていた時代で、「夲」の字体だけが伝わったとしても不思議はありません。なお、漢字使用が韓半島から伝わったことを考えると、高句麗好太王碑においても「夲」の字体が使われている事実は参考になると思います。
奈良文化財研究所の松村恵司さんは、飛鳥池遺跡出土の8000点余りの木簡について、「法華経夲、山夲等、すべて夲が使用されている」と述べ、「後世の字典には俗字、偽字とするが、七世紀から奈良時代は夲とするのが一般的」とされています。(「文字と古代日本」4-3「古代銭貨の銭文」引用は要約)
中国では、唐の時代、特に科挙において使用すべき正しい字体の基準を定めるため、楷書の字体の「乱れ」を正す動きが起こりました。有名な顔元孫の「干禄字書」はその流れの代表的な著書ですが、そこにはまだ「本」と「夲」は取り上げられていません。甥の顔真卿がそれを碑文にし、干禄字書は世に広まりますが、その顔真卿も「本」の字体は一例しか残しておらず、通常は「夲」の字体を書いています。9世紀には「五経文字」が国家公認の形で正字の基準を示しますが、そこでもすべて「夲」の字体が用いられています。
結局、「本」の字体が正字として認識されたのは、宋代以降のこととなり、引用されている「広韻」のような記述が現れるわけです。これが宋版の普及と共に一般化し、やがて日本にも伝わります。(ただし、それ以後も「夲」の字体を書く例は多く見られます。)
日本で「本」の字体を書いた確かな例としては、栄西が最も早いようです。私自身、いろいろな文字資料に当たってみましたが、平安時代後期までのもので「本」という字体を書いたものは未だに一つも見たことがありません。
なお、それらが「夲=トウ」として書かれているのでないことは、ほとんどの文脈で明らかですが、典型的な例としては「日夲」と書かれているものが多数あることでも分かります。「日夲霊異記」「日夲書紀」「日夲国」等々。また、聖徳太子の(ものと伝えられる)「法華経義疏」の欄外に「非海彼夲」(かいひのほんにあらず)という書き込みがあり、やはり書物の意味の「本」を表しています。このような例をあげると切りがありませんので、ご自身で実際に資料に当たってみられることをお勧めします。
このように、少なくとも7世紀8世紀の日本では、「本」の意味で「夲」の字体を書いた例が多数見つかり、逆に「本」の字体そのものが全く見つからないことから考えて、「夲」を本来の字義に解して「トウ」と読むことには無理があると思います。
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