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レバノンの写真

 投稿者:kaji  投稿日:2009年 3月11日(水)23時22分16秒
  レバノンの写真のページを見ました。皆素晴らしい写真ですね!雄大なごつごつした景色の中にたくさんの教会や神殿が点在しているところを見ると自分たちとは違うという驚きのようなものを感じます。自然そのものが島国の日本とは異質の空間や、人間性を作っているのでしょうか。  
 

今度はイランだ!

 投稿者:天空の昇龍より  投稿日:2009年 2月14日(土)19時50分41秒
  ありがとうございます。天空がどこかはわかりませんが、今核開発で話題になっているイラン、昔はペルシャと言った、かの国が日本へ及ぼした影響を交えて真のイランを伝えたいと思っております。地図のページを作りました。イラクとアフガニスタンに挟まれて、世界唯一の帝国主義国家アメリカと対峙するイランの元気ぶりをご覧ください。  

メキシコ編

 投稿者:頑固オヤジ  投稿日:2009年 2月12日(木)23時52分29秒
  メキシコ編完成ご苦労様でした。最終編は大きくなる写真がたくさん有り、考古学の素人の私にも面白く、旅行に行った様な気がしました。今度は天空の遺跡を期待しています。

http://oyaziganko.exblog.jp/

 

大和の弥生期の鏡出土数は?

 投稿者:大和の旅人・管理人より  投稿日:2008年12月 6日(土)20時44分18秒
  いま奈良におります。修復なった奈良の唐招提寺を参拝後、橿原考古研究所博物館へ行ってヴォランティアの説明員に「奈良県の弥生時代の出土鏡は何枚ですか?」という質問をしました。返答は畿内論者の学者と異なり「朝鮮系の多鈕細文鏡が5,6枚分です」でした。やっぱり!こんな貧弱な出土数しかない所が邪馬台国であるはずはありません。百枚を超える出土数を誇る場所は北九州だけです。もう卑弥呼の時代以後にしか出ない鏡を論じても時間の無駄というものでしょう。  

同意見です

 投稿者:昇龍より  投稿日:2008年12月 3日(水)08時39分21秒
  全く同意見ですが、ちょっと誤植が目立ちます。送信する前に読み直して下されたく候。お互いに頑張りましょう!  

王都に墓はつくりません。

 投稿者:dogs_ear  投稿日:2008年12月 3日(水)07時33分56秒
  墓まみれの王都などありません。纏向遺跡が都だとは、都と墓域の区別すらしない歴史無視による魔法です。私は長年文献を便りに研究をしてきましたが、その私にすら、畿内説者のいう墓や遺物の年代は信用がおけません。畿内説者たちは、かなり早期から文献では畿内説論証が不可能とする結論に達していたようで、文献の資料価値ょなきものにせんとしきました。そうしてき、コンチキ地図を持ち出したり鏡についてウソをついたり。最近では、墓や土器の「年代いじり」に執心しているようです。

卑弥呼の墓に関する(そもそも築造当時のまま現存するか否かからはじまる)私の論考です。
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/438274b64c2739f2ea54d37654325feb
http://blog.goo.ne.jp/dogs_ear/e/3918a5040010737682de4bd09cfcdccd
 

魏鏡は小さいものばかり

 投稿者:昇龍より  投稿日:2008年12月 2日(火)19時31分48秒
  小さいというのは、例の三角縁・・・の鏡に比べてという意味で、みな十数センチのものばかりでした。中国銅鏡のことは、やはり中国書の専門書店で購入した方が、畿内説の人たちが書いた伝世鏡やら年号鏡だの雑念なしに検討できます。日本で出された本なら中国書店刊「中国古代銅鏡史」がお勧めです。洛陽博へ行かれれば神獣鏡は魏の鏡ではないことが納得いくことでしょうし、卑弥呼よりあとの時代にしか出ない鏡のことをもういいかげん「卑弥呼の鏡」と呼ぶのはやめてほしい。未だに呪縛にかかっている人が多いことにあきれます。この前のTBS「世界ふしぎ発見!」のような(纏向遺跡が都?)トンデモ番組がまだ作られるとは!一方的な見方をすれば大本営発表番組がいくらでも作れる好例でしょう、気をつけなくては。  

様式の話でしたか。

 投稿者:dogs_ear  投稿日:2008年12月 2日(火)13時01分8秒
  >魏は「後漢式の文様を踏襲して新しく鏡を作った」と思います。
>呉式の神獣鏡と画像鏡は「卑弥呼の鏡」には含まれていないでしょう。

官製工房復活後の青龍年間から景初年間に「魏の官製工房で造られた後漢様式の鏡」が、卑弥呼におくられた鏡というわけでしょうか。後漢代に造られた後漢鏡ではないということで納得です。

>みな小さい鏡ばかりでガッカリした
「掌中鏡」?とかいって、実用鏡は掌に入るほどに小さかったと聞いています。

>呉の方が鏡の技術は進んでいるという印象です。
これは、私のような遺跡・遺物ビギナーには意外です。


貴重なご意見をありがとうございました。大変べんきょうになりました。
 

後漢「式」鏡ですよ

 投稿者:昇龍より  投稿日:2008年12月 2日(火)12時30分59秒
  後漢時代に作られていたのを後漢鏡と呼べばそうでしょうが、私のいうのは「後漢式鏡」であって「後漢時代の文様を踏襲した鏡」という意味で、王仲殊氏や森浩一氏もそういう考えだと理解しています。洛陽博物館には86年頃に行ったことがあり、図録同様、「後漢式鏡」(みな小さい鏡ばかりでガッカリした)が並んでいました。特に魏式の特別な文様の鏡というのはなく、図録も同様です。
 私は呉の方が鏡の技術は進んでいるという印象です。文献ばかり見たのではなく、実際に中国へ行っての感想で、今でも呉の方が鏡の種類は豊富で大きいという印象です。中国発刊の「中国出土古鏡図録」(中国書専門店にしかないでしょう)という本には陝西省、四川省、湖南省、洛陽出土の銅鏡が掲載されていますが、やはり呉(南方)の方が鏡作りは進歩しているという印象が強いですね。
 魏は「後漢式の文様を踏襲して新しく鏡を作った」と思います。呉式の神獣鏡と画像鏡は「卑弥呼の鏡」には含まれていないでしょう。
 

残る疑問。

 投稿者:dogs_ear  投稿日:2008年12月 1日(月)23時52分23秒
  ご返答ありがとうございます。こちらに書いてあるようなので、私もこちらに書かせていただきます。

さて。およそ190年から後漢朝滅亡の220年 まで、洛陽の官製工房での後漢鏡の製作は中断しました。魏が興きて魏都・洛陽での鏡づくりが復活するは明帝の時代(230年代)です。
240年に魏帝が卑弥呼に贈った100枚の鏡が後漢鏡だとすれば、少なくとも190年以前に製作されたものとの論理に帰結します。その線でいけば私の疑問は以下の3つです。

●滅びた前王朝の工房で製作された鏡を、魏がトップ外交の贈答品に使うだろうか。
●240年に贈られたのが後漢鏡だとすれば190年以前に製作された理屈になりますが、果たして錆びやすい青銅鏡を40年間「さら」の状態で保管できていたものか。
●後漢朝が保管していたとして、それを魏朝が禅譲を受けた時に引き継いだのでしょうか。まさか、使い古しの寄せ集めはないでしょうから、いずれにしても40年間の保存の有無が問題ですね。
 

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